発見!金ヶ崎要害
それは金ヶ崎の役場にある展望台(高さ46m)の上から金ヶ崎の街を眺めた時のことでした。役場から歩いてほど近いエリアに、そこだけ取り残されたように大きな森が広がるエリアが見えます。『あれはいったいなんだろう』。不思議な森への不思議な気づきが、金ヶ崎要害との不思議な出会いとなりました。
その森の名前は金ヶ崎要害。伊達藩と南部藩の藩境にあった金ヶ崎。この要衝の地を守るべく伊達藩から派遣された侍たちが住んだ場所が要害といわれるこのエリアでした。知りませんでした。金ヶ崎のみなさんには失礼ながら、何もない単なる過疎の町だとばかり思っていた金ヶ崎に、こんな素敵な場所があったとは・・・。初秋の一日、そんな金ヶ崎要害を訪ねてきました。
「要害」というと、なんとも近づきがたい辺境の地を思い浮かべてしまいますが、実は藩の出先機関である藩政をおこなう場所を要害と呼んでいたのです。これは江戸幕府がとった「一国一城」制度によるものです。つまり一つの藩の中で「城」と呼べるのはひとつだけ。伊達藩の場合、城と呼べるのは仙台の青葉城だけであり、それ以外は城であっても「要害」と呼ぶようにという幕府からのお達しが出ていたことによります。ちなみに伊達藩の場合は全部で12の城、つまり「要害」があったといわれていますが、令和の今に姿を残している「要害」は、ここ金ヶ崎だけです。
森の中にかつての下級武士が住んでいた建物が残されていました。当時、金ヶ崎要害を守る武士たちの平均的な禄高は、わずか7石だったといわれています。禄高だけではとても暮らしていけないため、すべての武士に自給自足ができるだけの広い土地が与えられました。そしてそれが北風から屋敷を守るエグネの林となり、家族に恵みを与える柿の木や桑の木そしてリンゴの木として今に伝えられることになったのです。写真は片平丁と土合丁にそれぞれ旧大沼家住宅として残されている建物です。
ザ・サムライ屋敷然とした見事な表門を備えた大松沢家住宅入口。当主は歴代にわたって金ヶ崎要害において山林奉行を勤めたといわれています。令和の今は、人気のレストランとして大変な評判を呼んでいるとのこと。
写真は昼食をいただいた侍屋敷・大松沢家レストランの令和の姿です。侍屋敷なのに無骨さがなく、なんとも粋な佇まい。森の中にたたずむ波打つようなガラスでおおわれた瀟洒な建物が、見事に「伊達の粋」を今に伝えています。
下の写真は伊東家住宅です。やはり現在レストランとして使われています。優雅な佇まいの大松沢家住宅とはちがい、雑木林のような素朴な味わいの庭を持つ伊東家住宅は、訪れる人を優しく包みこむような、ほっとする安らぎを与えてくれる、なぜか、どこか懐かしい建物でした。