八重樫博士の「平泉学」

3月9日(木) 平泉世界遺産ガイダンスセンターにて、八重樫博士(文学)による「平泉学」のセミナーが開催されました。これは平泉町の婦人団体の一支部が主催した教養講座に、講師として平泉考古学の泰斗である八重樫氏をお招きして行われたものです。北上市出身の八重樫氏は、持ち前のゆる~い東北弁を駆使して、参加された皆さんに「平泉学の神髄」をわかりやすく解説していただきました。リラックスした雰囲気でスタートした講座も徐々に熱を帯びていき、博士の熱い思いが爆発する場面も多発。汲めども尽きぬ「平泉学」の奥の深さをまじまじと感じることが出来た熱血講座となりました。

展示コーナーでの解説前に、本日の見どころ・聴き所を笑いを交えながらお話しする八重樫博士。昼下がりの柔らかな反射光がはいる部屋で、本日の講義はリラックスした雰囲気で始まります。

「 はじめに・・・ 世界遺産とは何か・・・ 平泉の遺産とは何か・・・ どのような経緯で平泉が世界遺産となったのか・・・ 」

「 日本においては国宝第一号の指定を受けた金色堂も、世界遺産となるためには「そうそう簡単な話ではなかった」のです・・・ 」

「 その時にわたくしたちは・・・・ということで文化庁からの依頼もあり・・・に対して・・・を探っていったのですが・・・ 」

文化遺産としての平泉が世界遺産認定を受けるまでの道のりが熱く語られます。

博士の話に熱心に聞き入るみなさん。

「 平泉の場合・・・そして・・・だから・・・のようにして世界遺産となったのです! 」 なるほどそうか・・・

さあここからがこのガイダンスセンターが誇る展示室となります。ワイドスクリーンでの圧巻の映像を見る前に、仏教伝来と平泉との関係をやさしく解説する博士。

「 三途の川とは・・・ 死んだひとが「三種類の渡り方」で渡る川の名前で、地獄と天国に分かれていく上での最初の関門のことを言います・・・  いいことをしてきた人は「橋の上を歩いて渡る」(まったく濡れません)  ちょっと悪いことをしてきた人は「船で渡る」(波でちょっと濡れる) 人殺しなどの悪いことをしてきた人は「水の中を歩いて渡る」(びしょびしょです)・・・ 」

「 三途の川をわたったところに「奪衣婆(だつえば)」という婆さまがいます。その婆さまはやってきた亡者がら着物をはぎ取ります。橋を着た人、船出来た人、川の中を歩いてきた人、それぞれの着物をそばにある木に掛けて罪の重さをはかります。そのとき橋を歩いて渡ってきた「いいひと」がぼうっとしていると、水の中を歩いてきた悪い奴がその乾いている着物をそっと着てしまい、木に掛けられている濡れた着物を、橋を歩いてきたいい人に着せて、さっさと逃げていくことがあります。かわいそうなことに濡れた着物を着せられた人がぼうっとしていると奪衣婆にひょいっと地獄側に追いやられてしまいます。そこから来たのが「濡れ衣を着せられる」という言葉です。この言葉の語源は三途の川の奪衣婆のお話しの中から出てきたのです・・・  死んだ後も、人間にはいろいろな試練が待っていることを教えてくれます たいへんですね 」 (・・・なるほど・・・)

「 さて、平泉に仏教が伝来した経緯は・・・ 文化が津波のようにものすごい勢いで伝来してくるのです・・・ 」

閑話休題(プロローグシアター内の撮影は禁止となっています)

「 前九年の役、そして後三年の役で亡くなった方々の霊をお祀りすることと平和を希求する崇高な精神 それが平泉の宝・供養願文に記されているのです 」(空中に吊り下げられているのが供養願文のレプリカ)

「 清衡の祈りが込められたこの供養願文こそは、平泉の宝でもあり、そして世界の宝でもあるのです・・・ 」(熱)

「 無量光院とは・・・ 柳之御所とは・・・  ・・・ということです。 」(フムフム・・・)

「 仏国土、つまり浄土を模した中核的な寺院が中尊寺。中尊寺の位置づけは、後三年の役で亡くなった方々を永遠に祀るための施設としての、特別な意味合いを持ったものだったのです・・・ 」   えーっ、そうなんだ はじめて知ったわ・・・

「 毛越寺は二代基衡公が建立します ここは京の都を強く意識したものになっている。中尊寺が祈りの場所であり、毛越寺は憩いの場所であった・・・ 特にそばにある観自在王院跡からは様々な京都にまつわる遺物が発掘されています・・・ 京の都に行ってみたくとも、当時はとてもいけない。京の都を平泉に再現したようなそんな施設が観自在王院ではなかったか・・・ 」

「 達谷窟屋(たっこくのいわや)こそが平泉に入口なのです。都からはるばるやってきた人をこの巨大な窟屋が迎えます。岩に掘られた仏さま、顔の大きさだけで6メートル以上もある仏さまを見た当時の人々は心底驚いたことだろうと思います・・・ 」

「 わかりますよね・・・ 」

「 えっ わからないですか・・・ 」

「 ここを見てください。当時の人々の暮らしぶりがよくわかりますね・・・ 」

「 さあ次に行きましょう! 」

「 当時の食事は朝と晩の二食です。今のように三食になったのは江戸時代の終わりごろからなのです・・・ ところで、ここにあるように食事を盛ったものを当時は椀飯(おうばん)といった。その椀飯をごちそうする、つまりふるまうことを「椀飯振舞(おうばんぶるまい)」といったのです・・・  」(笑)   

「 当時平泉にたくさんの猫がいただろうことがわかっています。それがわかるのがこの「かわらけ」です。これはたいへんめずらしい「かわらけ」です。というのもかわらけの中央に猫の足跡がのこされています。つまり土をこねて形を整えて乾かしているときに、その上を猫が歩いたんですね。そこで足跡が残ったかわらけが、そのまま炉の中で焼き上げられてしまった。そしてしっかりと足跡が残って出来上がったのがこのかわらけです・・・ 900年前のいたずら好きの猫の存在を今に伝えています・・・」

「 昔はトイレットペーパーなどないですから・・・ というわけでこの・・・をうまく使って・・・したというわけです・・・  たまにその・・・が丸く削られている。それは偉い人じゃないと使えない。だから・・・が、・・・したのではないかと・・・は考えているのであります・・・ 以上。 」

「 ひとつの木を加工して作った下駄は歯が簡単に折れた・・・そこで折れても交換のできるものを考えた・・・ 京の技術がここにも見える!というわけです。 」

「 かな文字は読める・・・ ほらここに・・・・と書いてある。読めるでしょう。でも漢語で書かれた文字は読みずらい。東大の大学院の専門の研究生ですら、読む人によって読み方が違うくらいですから・・・  」 

「 暮らしの中にこそ文化があったのです・・・ 当時、京の都に次ぐ規模の平泉には生活にねざした文化が栄えていたのです・・・ 平泉はすごいのです・・・ 」(熱 圧・・・)

「 それがここを見れば分かるのです!! 」(熱)

「 だから・・・そして・・・ ということで・・・なのです 」(熱 熱)

ふ~む なるほど・・・

「 これが磐前村(いわさきむら)の印です・・・ 磐前村がどこにあったのかはわかっていません・・・ 当時の人は、ほとんどが文字のかけない文盲です・・・そのため使われたのがこのような印鑑でした・・・ これによって記銘の代わりにしたのですね・・・ 見事です!! 」

さきほどの・・・についてですが ・・・はどうして・・・だったのでしょうか。  「 それはですね・・・ということで・・・だったのです。 」  あっなるほど・・・そうですか。 よくわかりました、ありがとうございます。 

「 みなさんいかがでしたか。そろそろ講義はこれで終了ということでよろしいでしょうか・・・ 」

・・・ということで、本日の講義が終了しました。前日からの秋田・横手での仕事を終えて戻ったばかり。お疲れの中での熱い講義に、参加した皆さんからも心からのお礼の言葉が贈られていました。改めて平泉学の泰斗・八重樫博士のすごさを実感させていただいた一日となりました。心からの御礼を述べさせていただきます。ありがとうございます。博士のこれからますますのご活躍を心よりお祈り申し上げます。