二十日夜祭 

1月20日(金) 15時から毛越寺・常行堂にて二十日夜祭・献膳式の神事が執り行われました。

初代常行堂は1597年(慶長2年)に焼失、現存する堂は享保17年(1732)仙台藩主伊達吉村公によって再建されたものです。堂は宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神(またらじん)がまつられています。摩多羅神(またらじん)とは、阿弥陀如来の化身といわれています。二十日夜祭は新春の祈祷である常行堂における摩多羅神祭の最終日に行われるお祭りです。華献膳と野菜献膳のふたつの献膳式に引き続き、古伝の常行三昧供の修法が行わます。そのあと、常行堂内では僧侶たちによる「延年の舞」が夜半まで奉演されます。ここまでは今年もつつがなく挙行されました。誠に残念なのが、祭りのハイライトとでもいうべき二十日夜祭献膳行列である「たいまつ行列」が中止となったことです。以下は二十日夜祭の本来のスケジュールです。

15:00=献膳式
16:00=常行三昧供
18:00=後夜作法
19:30=献膳行列平泉駅前出発
19:40=大護摩供
20:00=献膳行列山門到着
21:00=延年の舞奉納
24:00頃=舞終了

本来なら日が暮れた後、19:30に献膳行列が平泉駅を出発します。これはこの年に厄年を迎えた男衆と前年厄年だった男衆が、毛越寺通りをたいまつの火花を散らしながら勇壮に練り歩くものです。そして献膳行列が山門を入って常行堂の前に到着したところで、蘇民袋の争奪戦がはじまります。激しい奪い合いの結果、最後に蘇民袋をつかんだ男が今年の福男ということになるのです。そのあと21時より堂内では延年の舞の奉納が厳かに行われ、いよいよ舞いが終了するのは日付が一つ変わる頃合いとなります。舞の終了をもって二十日夜祭は終わりを迎えるのです。   合掌

毛越寺・大泉ヶ池 州浜と立石

二十日夜祭のメイン舞台となる常行堂

常行堂内部 中央に摩多羅神(またらじん)が祀られています

摩多羅神(またらじん)

ひとつひとつみごとに花の姿を模した献上花がきれいに飾り付けられます。並べられる花の位置・順番はすべてが古来より決まっており、これもすべて父から子、子から孫へと、華献膳本家の千葉家に一家相伝で伝えられてきた祖先伝来の法なのです。

膳には精巧に造られた花々の皿が献ぜられたいます

まるで本物の花が飾られたよう

いにしえから伝わる造花の技術は見事です

一つ一つが見事に飾られた献上花

献膳式前の法名 僧侶たちの唱える般若心経が堂内を厳かな空気に変えていきます 左の青い裃の青年は、華献膳本家の千葉家跡継ぎ光くん

堂内の奥まった場所で、非公開による献膳式が執り行われます

本来ならば・・・・

献膳式が終わった後に、二十日夜祭講中の役員による講中法要をはじめとする常行三昧供の修法がおこなわれます。

そしてとっぷりと陽が沈んだ頃合いからいよいよ、この夜のメインイベントであるたいまつ行列が始まります。この年に厄年をむかえる男衆が赤いハチマキと下帯ひとつの裸になって、燃えるたいまつを掲げながら毛越寺通りを練り歩くのです。勇壮なその行列を見ようと、遠方からもたくさんの見物客が訪れます。ところが残念なことにこの3年、コロナの影響で中止となってしまいました。さあ、今年こそはと思って迎えた新年、またもや中止です。二十日夜祭世話人会のひとりとしてははなはだ残念でなりません。是非とも来年こそは開催できることを心から願っております。以下の写真はかつて行われた祭りの場面です。来年はもう一度この景色が見られるといいですね。(一部、平泉観光協会、平泉観光写真社様等のホームページより転載・引用させていただきました。ありがとうございます)

厄年の男衆・毛越寺僧侶・講中メンバーによる記念撮影 僧の左側に立つのが筆者の叔父

たいまつに火がつけられます

燃えるたいまつを、互いに掲げあいます

たいまつをチカラ棒で勢いよくたたくと、パチパチと火の粉があたり一帯にを舞い上がります

献膳行列が常行堂に到着すると、最後に蘇民袋の争奪戦がはじまり、二十日夜祭も最高潮をむかえます

いよいよ蘇民袋争奪戦が始まります

酒も入って、皆気合が入っています

蘇民袋の争奪戦 とった男が今年の福男!

二十日夜祭・世話人会一同は、男衆の掲げるたいまつの製作をはじめ、来年の二十日夜祭開催に向けて清々と準備を進めてまいります。2024年 四年ぶりの二十日夜祭にどうぞご期待ください。